毎日新聞「今週の本棚」 2024.7.27
細田昌志『力道山未亡人』小学館
敗戦により日本の人心が荒廃していた昭和20年代、折から始まったテレビ放送においてアメリカ人レスラーを空手チョップでなぎ倒し、爆発的な人気を博した。ところが1963年末、赤坂のクラブで腹をやくざに刺され、1週間後に急逝する。
本書が伝えるその人柄は、世に流布するイメージとはかなり異なる。「一緒に東京の夜を変えよう」、そう力道山は熱弁した。赤坂を日本のラスベガスに、とも。視線の先には南北朝鮮と日本の同時国交正常化もとらえていた。力道山は実業家であり、政治家でもあった。
半年前に結婚したばかりの新妻は22歳で未亡人となった。力道山が夢の実現へ向けいかなる構想を持ち合わせていたのか知るよしもない。本書は力道山未亡人による、夢の後始末の物語である。
死亡時に力道山は5社の社長だった。リキアパートやリキマンションを所有する土地売買の「リキエンタープライズ」、「日本プロレス」、レストランやボウリング場、トルコ風呂(サウナ)を経営する「リキスポーツ」、エディ・タウンゼントをトレーナーとして招聘し藤猛を育てた「リキボクシングクラブ」、そして相模湖に52万坪のゴルフ場などを建設しようとした「リキ観光開発」である。
しかし黒字はプロレスに偏り、相模湖畔の開発には17億円の負債があった。力道山の名前で運転資金を借り、5社を回した。プロレスの利益と力道山個人とが原動力となるビジネスモデルだったのだ。
力道山の念頭にビジネスでの生き残りがあったとすれば、9年を遡る1954年に決行された柔道王・木村政彦との「日本一決定戦」の謎も解ける。柔道の実力が抜群であれ、ビジネスでは場つなぎの戦力でしかない木村が、将来にわたりカネを生み出すことになるプロレスの仕組みを暴露したのだ。形をなしつつあったビジネスを護る情念が迸り出たのだろう。
破天荒なビジネスや政治活動は力道山が先駆者だった。その遺伝子を受け継いだのが猪木だった。