佐藤俊樹『社会学の新地平』岩波新書

 「資本主義の始まり」を論じたマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904~05、増補版1920)につき、これまでの通説はこうだ。カルヴァン派プロテスタントの「世俗内的禁欲」を中核とする営利心が「資本主義の精神」となり、18世紀のイギリスで産業革命を引き起こしたものの資本主義経済体制が確立するとそれも不要とされ、精神喪失に立ち至った云々(大塚久雄)。「歴史的に一回限り起きた」文化科学現象だという。

 アダム・スミス『国富論』(1776)は資本主義として分業の重要性を唱えながら「社会的分業」すなわち市場の方向で議論を進めたのだが、では「企業内分業」すなわち組織は近代にどう刷新されたのか。

 本書はウェーバーが追求した「資本主義の精神」とはズバリ「合理的組織」のあり方だ、という。けれどもウェーバーは少数の事例を挙げるにとどまり、その仕組みの分析にはたどりつかなかった。
 
 1920年のウェーバー死後その解明に取り組んだのが、合理的組織は「意思決定の連鎖により環境変化に対応していく」と解釈したH.A.サイモンの組織論であり、P.ブラウ、R.マートンやC.ライト・ミルズらの官僚制研究で、決定版がN・ルーマンの「自己産出系」論だと本書は学説の流れを読む。前の決定を前提し拘束されて後の決定がなされていくが、どれくらい実現するかは後の決定に依存する、と。

 組織が事業を進め構成員が決定を分業するこうした組織づくりは「自分は救済される側」と証すため世俗内で禁欲的に活動し、成功を目指すカルヴァン派の信団に似ている。「「神」会社の「仮社員」として死ぬまで働くことに等しい」という比喩が秀逸だ。