2018年9月9日の座高円寺2公演「中央線文化としてのフリージャズ 森山威男・山下洋輔 欧州を震撼させた音楽の秘密」は満場のお客様にお越しいただき、無事終了いたしました。主催者として心より御礼申し上げます。

本公演は、松原隆一郎が杉並区の助成金と「中央線文化としてのフリージャズ実行委員会」の助力を得て主催しました。年初より準備を始め、区内を自転車でめぐってポスターを貼るなどし、終演後は呆然としておりましたが諸方面への精算が完了し、あとは杉並区へ報告するのみとなりました。

チケットが5月10日発売からの1ケ月強で早々と完売し、増席を決断しました。舞台映像は現在とりまとめ中で、いずれ何らかの方法でお目にかけることができるかと思います。

本公演では私から森山威男さん、山下洋輔さんに、第一部・第二部の演奏では演奏時間が短かくなることも厭わず体力の限界まで出し切っていただくようお願いしました。

その分、体調を整えるべく座談会を二部構成としました。前半ではお二人が中央線沿線で思索し世界に飛び立つ心境、後半はお二人が編み出し、いまに至るまで最先端を走り続ける音楽の「秘密」を実演していただきました。たんに昔話を挟む演奏公演ではなく、かつての演奏方式を今のお二人が言葉によって振り返る、つまり現在の自身と過去の自分が舞台で再会し実演するという試みを、それにもっともふさわしい舞台で実現できました。発案者として感無量です。

思えば本公演の構成は、私が森山威男さんの演奏技法につき『森山威男 スイングの核心』の動画で監督・製作した頃から温めていたものでした。社会経済学者である私は、その動画の作成とほぼ同時期に、自分の祖父の伝記である『頼介伝』(苦楽堂)を準備・執筆していました(パンフレット4面に、森山さんモデルの増永眼鏡とともに広告したものです)。両者をつなぐ発想に、座談会では話の腰を折ることを恐れて私が切り出せなかった「イノベーションは場所が生む」ということがあります。

祖父は大正時代に二十歳でフィリピン・ダバオに移民、帰国して神戸に流れ着き、起業して昭和初頭に満州鉄道との取引で巨額の財をなし、日中・日米戦争で会社を売却、八艘の船を建造するも軍に徴用され大半が沈没、終戦後は西山弥太郎の後を追って製鉄会社を興し、川崎重工兵庫工場の半分まで築いたものの経営破綻した、つまり起業し続けた人間です。

その祖父が最初に(ダバオでの「松原組」は登記未確認)起業した場所が、神戸の「東出町」でした。隣接する西出町・東川崎町と合わせて高円寺駅北口から座高円寺(環七沿い)ほどまでの狭いエリアです。そこに大正後期から昭和初期にかけ祖父とともに住んだのが、山口組とその初代春吉、日本画の大家・東山魁夷、ミステリーの王者・横溝正史、流通革命児・中内功でした。またこの地区の経済的拠点である川崎造船所の社長・松方幸次郎は、ヨーロッパに流出していた浮世絵およびモネやゴッホ等印象派の膨大な絵画を大正期に購入しました(松方コレクション)。つまり大正末から昭和初期の日本の経済文化は、そんな狭い場所が動かしたのです。彼らイノベーターたちが先行き不安にめげず突進しえたのも、時代と場所の空気が後押ししたせいと思われます。

同様に、新宿から国立に至る1960年代から70年代初頭の中央線沿線、とりわけ阿佐谷は「燃えていた町」(川本三郎)でした。私はそこに「東出町」を見ました。山下さん森山さんがクラシックやジャズの世界での孤立を恐れず唯一無二のフリージャズを構築しえたのは中央線文化あってことだ、というのが座談会の前半で検証しようとした私の仮説です。

また後半では、お二人にフリージャズの技法を公開・実演していただきました。ご来場前には「種明かしなどして面白いものか」と思われた方もいらっしゃったかもしれません。しかし趣味で格闘技を続けている私は、たとえ自分ができない技でも、発想や背景を知ることで演技を鑑賞する楽しみが倍加することを知っていました。暖かく見守って下さったことに、重ねて御礼申し上げます。

山下さん、森山さんは、私の乱暴な質問に快くお答え下さいました。時空を超え全盛期と並び立つような最高の演奏を聴かせて下さったことにも、満腔の謝意を表します。

みなさま、どうもありがとうございました。