選考を終えて       松原隆一郎

第15回の今回をもって、毎日出版文化賞書評賞は終幕を迎える。新刊書を値踏みする書評をさらに評価するというこのユニークな試みは、書評者に「書評とは何か」を問いかける役割を常に果たしてきた。しかも毎日新聞の書評欄は「他紙が原稿用紙二枚で内容の紹介に終始するのに対し、標準で三枚半をあてる」「古典であれ再刊時には選択肢に入れる」という、これまた我が国では類例のない方針で運営されている。流行におもねらず、書評といえども読ませる、ということだが、その精神をひときわ純粋な形で引き継いでこられた荒川さんの書評集は、まさに本賞の掉尾を飾るに相応しい作品である。
書評そのものは、実は隆盛を誇っている。ネットが万人にとっての日常のツールとなり、誰もが気軽に感想文を公表しうる時代となったからだ。そんな現在であってもなお書籍という形態の書評集は出版され続けており、それには本賞も貢献してきたところではある。けれども書評集の多くに目を通して気になるのが、ネット書評にも通じることだが、書評者が「私」をことさらに登場させる傾向である。
「私」が好きな本をオススメする。「私」が知る雑学を披瀝する。「私」の小説のタネ本を開陳する。「私」の私生活をチラ見せする。書評者が有無を言わせぬ魅力の持ち主であれば、それらもまた「読ませる」芸の一種ではあるだろう。けれどもそれは安全な芸でもある。「私」が書いた書評が自分の作品と摩擦を起こしたり、振りかざした刃が自分に向かってくることはないのだから。
荒川さんの書評は、まさにその対極にある。たとえば、ショーペンハウアーの『読書について』新訳。「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ」と引用し、荒川さんは「読書は『自分の頭で考える』ことのできる、ごく少数の人、特別な能力をそなえる人だけにゆるされるもの」と受ける。「読書が消えた時代だ。静かだ」。なんという真理をあけすけに語るのだろう。
また、武部利男訳『白楽天詩集』。
「さむい かぜ かお はりさける
こおる ゆき くるま くだける」。
驚愕の「かな」訳、これぞ玄人筋のオススメ芸だ。
阿部知二『冬の宿』は「昭和期屈指の名作だ。何度読んでも心がふるえる」、高見順『わが胸の底のここには』の「文章は簡明だ。言葉を飾らない」。「高見順のことばは、この先の文学にとっても大切なもの」と評されると、古く未知の作品がキラキラ輝いて見え、つい買ってしまう。
だがなんといっても迫力があるのは同業である戦後詩人への評だろう。田村隆一・吉本隆明・堀川正美・石垣りん・茨木のり子、また寺山修司・飯島耕一の詩の一部が引用され、その核心が凝縮された言葉で刻まれている。小説だけでなく同業者の手になる現代詩までもこのように評価を体系的に組み上げていくのだから、当然ご自分の詩もその中で無言の位置づけがなされることになる。これは物書きにとって、なんとも怖ろしいことだ。
「文学全集がなくなったあと、風景は一変した。個々の作家の作品を読むことだけで、文学像がつくられるようになった」。荒川さんはいつも、文学史を参照しながら詩を書き、書評しておられるのだろう。そのように背筋のぴんと張った本書を選べたことを、慶びたい。