道場訓
私はいま、我々が直面している最大の危機は、思考や議論において公共性が崩壊しつつあることだ考えています。ここで「公共性」と呼ぼうとしているのは、思考や議論のルールのようなものです。それがなくなれば思考に優劣はつけられなくなり、議論は無意味となります。たんなる妄想や情念の表現でしかなくなるからです。それはスポーツでルールが守られないのと同じです。
「公共性」というと難しそうですが、簡単にいって公開されうること、公平であること、公正であることなどがその性格でしょう。もっと具体的にいうと、他人にも了解しうるような形で証拠を挙げたり、理屈を立てたりすること、また議論においては他人の意見を正しく引用したりするということです。思考には最終的な結論というのが(おそらく)存在しませんが、少しでも考えを先に進めるには他人から批判をもらうのが近道です。自己批判をおこなうという手もありますが、考えには自分なりの癖のようなものがあって、自問自答じたいが自分の癖の中でしか展開しない可能性が高いといえます。そこで我々は考えを進めるためにも他人からの批判を必要とするのです。それゆえ思考には作法があり、それを守ることによって発展することになります。
したがって、思考は論争をくぐりぬけようとする格闘技でもあるのですが、しかし現実の論争はしばしばルールを無視するものとなっています。一方では対立する見解や論者を傷つけるだけのものとなり、他方では、観客受けを狙うだけのうものとなっているのです。論争はより正しい結論を導くためのコミュニケーションのはずなのに、ケンカ、ないしショーと化しているのです。けれども、論争は思考の格闘技であってケンカでもショーでもありません。ところが我が国の言論界では、自分が正義だと思う事柄を主張するためにはいかようにルールを破っても構わない、といわんばかりの発言が横行しています。
論争での勝ち負けにこだわるならば、負けた者には存在意義がないことになるでしょう。プロスポーツの選手ならば、勝たねば存在意義を否定されるのかもしれません。しかし、我々は自分なりに思考したり決断したりすることを、生きている限り手放すことはできないのです。そしてものを考えるということは、一部の人だけの特権的な営みではありません。すべての人が、自分の生活をよりよくするために手放してはならないものなのです。
現在、たとえば暴力について考えることは、焦眉の課題となっています。国家間の暴力である戦争や少年による暴力についてです。けれども戦後長きにわたり、我々は暴力について考えることを放棄してきました。侵略戦争を否定することには賛成するとしても、それならば次にはもし他国から攻撃されたならば我々はどうするのか、がまともに考えられてきませんでした。国防のための戦争も否定して攻撃されるままにするのか、それとも抵抗はするのか。抵抗はどこまでであれば侵略ではないのか。防衛する戦略や決断は誰がどのようなプロセスで行うのか。そうした議論こそが公共の場で堂々となされねばならないのだと思います。これは危険な話題とされてきましたし、またそれも事実ではあります。だからこそ、公共的なルールにのっとった思考や議論が必要なのです。それがなされず思考停止したままで感情にふりまわされたのが前の戦争当時の日本だったのではないでしょうか。今もなお、感情の赴くままに平和主義を唱えたり、戦争をひたすらに正当化するならば、我々は前の戦争からなにも学ばなかったことになるのではないでしょうか。だからこそ、思考や議論を公共的なルールに服する格闘技とすることが必要なのだと思います。
マスメディアにおいては、残念ながら論争の多くはケンカであり、ショーとなっています。マスメディアにおける論争の多くがルールに服さないのは象徴的ですが、ことは論壇に限られず、家庭内から会社内、学界から男女関係と、多くの場所でコミュニケーションが破綻しているというのが私の印象です。コミュニケーションが破綻した原因を、近代化や経済成長のなかで村落コミュニティが崩壊し、また会社コミュニティも行き詰まっていることに求めたり、またそれをインターネットや新々宗教のコミュニティが代替しつつあることに注目する見解を散見しますが、私にはむしろそれらは表面的な現象にすぎないと思えています。意見の対立を許容しそこから議論を発展させるような公共性がコミュニケーションにおいて崩壊しつつあることがその根底にあるのではないでしょうか。ルールのタガがはずれると、思考は妄想となり、議論は私怨をはらす手段となります。
私は現在、マスメディアで発言する機会を得ています。私のマスメディアにおける仕事のひとつは、本来ならば有意義な論争として結果が総括されるべきことがらがあるとして、それがただのケンカないしショーでしかなくなっているような場合に、対立する主張を再構成して、ありうべき論争に仕立て上げるというものです。かつての著作『格闘技としての同時代論争』はそうした観点から書いたものでしたし、朝日新聞紙上で続けてきた『ウォッチ論潮』もその延長上にあります。けれども、面倒なのが私自身がかかわった論争です。私が当事者である場合、論争の再構成は上記の形式ではやりづらくなります。自分の主張にすぎないものを論壇時評と称して書き散らす人もいますが、自分がプレイヤーであることは明示し区別すべきだと私は考えます。誰かの批判に答える適当なメディアを確保しておればよいのですが、常にうまくいくわけではありません。本来ならば、次に単行本を出版する折りになんらかの対応を施すべきなのでしょうが、論争が生じ人々の記憶から消え去るまでの時間はあまりにも短く、本をまとめるのにかかる時間からいえば間に合いそうにはありません。また、批判に対し私が答える機会をもったとしても、時を経たならば両者を知る人は限られるでしょう。そこで私は、このようなサイトを設けることで、マスメディアで発表した文章を補足することにしました。併せて、私が現在どのような活動を進行中であるのか、その全体をご理解いただくために資料を掲載することにしました。お暇とご関心がおありの方が、しばしお立ち寄りくだされば幸いです。
ひとつ付け加えておきますが、私は格闘技愛好者であり、それにかんする文章も少なからず書いたりしております。それは結構大まじめなことで、コミュニケーションの崩壊のさらに根底には、身体と思考の分裂があると考えているからです。暴力的な身体を制御できるような思考でなければ、思考の名には値しないのではないでしょうか。思考なき身体の叛乱が数々の暴力を生んでいます。文武両道が古くから求められてきたのも、身体を制御するような知性こそが知性の名に値するからです。軍事についての文民統制というのも同様で、暴力が現に存在することを直視しつつ、それを統御するような知恵こそが我々にとって必要なのです。思想については「相関社会科学」を、武道についても「総合格闘技」を、というふうに思考や身体を相関させたり総合したりすることが私の課題なのです。
1999年4月 松原隆一郎